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2人の息子。
2022.3.7僕には2人の息子がいる。授かったのはずいぶん歳が行ってから。6歳違いなので、入学や卒業が常に重なるが、この春は長男が通った専門学校の卒業と次男の高校進学が同時期になった。長男は今度の冬、22歳になり、次男はその数日後に16歳になる。共に山羊座O型。
ロケーション。
2022.2.7どこに住むかは、とても重要だ。在所とそこを取り巻く環境によって、僕らの日々の暮らしは形づくられる。写真は、気象協会提供の雨雲レーダーの地図だが、自宅をマーキングすると周囲はこんな感じ。南北にくっきりと川筋が見える。日田を代表する花月川と三隈川だ。
5分と10分。
2022.1.31現在の住まいは、大分県の内陸部、日田市の町外れにある。大きな神社のすぐ横にあって、広大な鎮守の森はわが庭のようだ。夜は静かで真っ暗になる。それでいて、徒歩5分で市役所に行ける。そのそばには、高速バスのバス停。もう少し歩けば、JR日田駅がある。
大雪恋しや。
2022.1.19そろそろ積もるかなあ。積もって欲しいなあ。冬の間、数回はドカッと降ってもらいたい。呑気な九州人の戯れ言。いやまったくその通り。北国の方々から見れば、すぐに交通麻痺を起こす九州の雪事情なんて可愛いものだろう。でも、だからこそ生まれる憧れと哀切。
錦絵を踏む。
2021.12.13秋が終わった。残暑の熱が冷めて、風は吹くたびに温度を下げ、鮎釣りの炎熱が遠い幻のように思えてくる頃。木々の葉は、日毎にその色を変えていく。ハゼが筆頭で、次いでモミジか。イチョウが黄色味を強めると秋はすっかり深くなっている。遂には、落葉の始まり。
標高150m。
2021.11.18良く山を登っている。と言うと、まるで頻繁に登山をしているようだが、さにあらず。そこは、大原山と名が付いているので、間違いなく山を登ってはいるものの、地形としてはほぼ「丘」に近い。標高で測れば、わずか150mの盛り上がりに過ぎない。でも、山なのだ。
歩いたねぇ。
2021.11.63日間で28km。歩きも歩いたり。こんなに歩いたことは、過去に経験がない。お仕事である。九州自然歩道の宮崎ルートの一部を歩き、感じたことをお伝えしたり、今後の利活用などを考えるというお題だ。エキスパートに交じり、なぜか僕も参加することとなった。
山の宴再び。
2021.10.31大分は豊後大野の山奥で、釣り仲間と絶品お寿司を堪能した翌週。今度は、九重町の標高1000mの旅館の庭で、創作イタリアンに浸る夜を迎えた。こちらは、ここのえ低山部の夏のお約束。今年は時季が少しずれたが、相変わらずの贅沢三昧。もう、この人たちったら。
山奥の納会。
2021.10.25釣りシーズンが終わった。ヤマメは9月末日を以て禁漁。良くしたもので、アユもほぼ同時期に落ち始めて、囮を追わなくなる。つまり、僕の釣期は残暑の暑さがまだ残るこの時期に、揃ってその幕を閉じる。拠り所がなくなり、生活の芯が消える。さあ、どうする?
トマトの夏。
2021.10.1わが家には、畑がある。小さな小さな極小農園。名を一畳農園という。文字通り、畳一枚ほどの広さしかない。村暮らしの頃は、10坪ほどの畑を借り、時には耕運機まで走らせて、数種の野菜を育てていたから、それに比べればまったくの猫の額。ところがどっこい。
川に浸かる。
2021.8.26釣りは水遊びでもある。早春から初夏までのヤマメのフライフィッシングと盛夏手前から秋の入り口までの鮎の友釣り。どちらも川に入る。フライはウェーダーという胴長を履くので、基本濡れない。魚を触って手を洗う程度。一方の友釣りは逆にずっと濡れっぱなし。
行間を掬う。
2021.8.18わからないことの方が多いはずだ。いや、この世界の話だ。新しく現れる分析や論説、方法論に違和感を覚えることが度々ある。科学や哲学は、それを解き明かそうとする行為だとして、ことビジネスの領域では結論を急ぐが余り、拙速になりがちな印象を受ける。
網で獲れば?
2021.7.31釣りをしない人に向かって、釣りが好きだけど、なかなか釣れないと嘆いたりすると、何人かは網で獲ればいいじゃないかとのたまう。釣りはするけど、ほとんど食べないんだと言うと、理解に苦しむ表情をされる方も少なくない。魚釣りは、釣ること自体が恍惚なのだが。
花を摘む。
2021.7.7詩人でいたいという想いと関係がある。生きる上でのリスクを後回しにする性向とも繋がりがある。心地よさについてと言うべきか。花鳥風月という物差しもある。僕らは、何に惹かれ、何を手に入れようとして、歩を進めるのか。それは必ず花でありたいという話。
細胞に染みる。
2021.5.13昔から感激屋ではあった。何にでも興味を募らせ、すぐに感動し、何かと興奮する。生来の特質だと思っていた。ただしそれは、歳を重ねれば、刃物が摩耗するように、徐々に慣れっこになって、いずれ薄れ弱まるものかとボンヤリ考えていた。ところがさにあらず。