
ジョグ9年目。
2023.9.1同じことの繰り返しやコツコツが苦手。と思い込んでいたが、振り返ってみると意外とそうでもない。特に日常生活においては、かなりのルーティンが支配している。まず、朝の散歩は村時代からだから、もう20年以上になる。そしてジョグ。早くも9年目に突入した。
和を以て貴し?
2023.8.26このブログは、基本時事ネタは扱わない。時間が経って読んだとき、意味が通じないのを避けるためだが、例外もある。最近、広島県安芸高田市の石丸市長対議会の対立が話題になっている。僕もYOU TUBEで何度か拝見したけれど、過去ここまでの衝突は見たことがない。
余計な一杯。
2023.8.18時々呑みに出掛ける。そして、ここが適量とわかっちゃいるけど、ついもう一杯とやってしまうのはなぜ?気の置けない仲間と硬軟取り混ぜた馬鹿話と共に呑む酒は、最高に美味しく楽しい。酒は決して強くはないし、たかが知れているけれど、やっぱり今夜ももう一杯。
大衆受けの罠。
2023.8.12面倒を取り除けば、コトはわかりやすくなる。一番大事なところこそ面倒が伴っている。これはもう古今東西の世の理。社会に対して、新しいメッセージを持っている人は、当然その核心を伝えたいと考える。ところがここが最も難しい。歴史に実例はいくらでもある。
罪深きは弱さ。
2023.8.6優しい社会は優しさでは作れない。僕が良く言う繰り言。強くなければ優しくはなれない。と続く。今日8月6日は、広島に原爆が落とされた日。3日後には長﨑にも同じ悲劇が刻まれた。疑いのないホロコースト。しかし、なぜそんな状況に陥ったのか。50年前の衝撃。
蔵書が溜まる。
2023.7.31好奇心が抑えられない。関心のあるテーマが夥しい。勢い深掘りしようとするわけだが、いまや情報源は誠に多様になった。オーソドックスな書籍を始め、電子図書、YOU TUBEなど、渇望を癒す文字や画像が簡単に手に入るありがたき時代。しかし、追い付かない。
百日紅の夏。
2023.7.25夏が盛りを迎えると、あちこちに白や紅、ピンクの花弁を房のように咲かせる百日紅。その名の通り、開花後もすぐに散り切ることもなく、長い期間咲き続ける。色の乏しい季節に、ホッとするような花木。日田のわが家にもシンボルツリーとして玄関脇に植えている。
螺旋的上昇。
2023.7.19あるいは螺旋的下降。豊かさと言われる暮らしの中身の話である。恐らく歴史の年表のせいだと思うのだが、太古の昔から現在に至るまで、ずっと直線的に進歩し、豊かになってきたと思いがちだ。僕は以前から、この感覚に違和感がある。本当に進んでいるのか?
手続きに堕す。
2023.7.13それまでの手法が通じなくなる。新しい領域に踏み出さなければ先がない。つまり、それまでのやり方を改めなければ、現状打破は難しい局面。時が経てば変化が起こる。変化には自らをアップデート、更新で対応することになるが、ここにマニュアルの限界が現れる。
一畳農園。
2023.7.7畑をやっている。と言っても、わずか畳一枚分。その名も一畳農園。狭い庭の一角に数種の野菜を植えている。今年は、ミニトマトとバジル、そして初の試みモロヘイヤ。梅雨の最中、ミニトマトは今季初収穫。冷蔵庫で冷やした後、カプレーゼで美味しくいただいた。
料理に嵌まる。
2023.6.30この春から始まった、完全ひとり暮らし。最大4人で暮らした家にひとりになったので、さまざまな日常が変化をしている。掃除と洗濯、そして料理と買い物。前者は規模と頻度が落ちるだけで、内容にはさして違いはないが、料理は意欲次第でかなりの選択肢が現れる。
普遍で本質。
2023.6.23身上らしきものがあるとすれば、染まらないこと。と答える。人にも、土地にも、組織にも、時代にも染まらず、常に自分自身を保っていたいと強く思っている。刺激を受けることはあるだろう。一時的に影響を受けることもないとは言わない。しかし、しかしである。
教室にて。
2023.6.18長く教えているデザイン専門学校の授業は、雑談余談を重視している。柱は、いくつかのテーマに沿った僕の仕事のケーススタディなのだが、切りが悪く間が空いたりすると、迷わずそんな時間になる。入り口は枠をはめない質疑応答。なんでもありというのがポイントだ。
成熟と劣化。
2023.6.12近ごろやたらと気になっている。成熟は喜ばしいが、劣化は受け入れたくない。しかし、それは表裏一体、宿命的にくっついていて、あざなえる縄のごとく、交互にあるいは同時に表れる。社会も組織も個人も同様で、時の蓄積の果てに、発酵と腐敗の混在へ辿り着く。
遊びの先に。
2023.6.6遊びをせんとや生まれけむ。のフレーズがあったのは、梁塵秘抄だったか。僕を含めて、わが遊びの肯定にしばしば引き合いに出される。編纂したとされる後白河院の真意はともかく、言い訳ではなく遊びの意義については、いまも変わらず強弁したくなることがある。