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美について。
2021.10.19僕らの日常は、判断と決断の連続。人生を決定する一大事から、極々些細なことまで。大きいか小さいか。深いか浅いか。高いか低いか。熱いか温いか。美味いか不味いか。キツいかラクか。高いか安いか。損か得か。カッコ良いかカッコ悪いか。美しいか醜いか。等々。
開かずの扉。
2021.10.13衣食住。人の営みをそんな風に言うことがある。纏うことも、食べることも、住まうことも、そしてそれ以外の膨大な些事を含めて、その様を生活とか暮らしとか呼んでいる。毎日やることは、首を傾げるほど色々あって、なんとなく気ぜわしく過ぎて行く。
思索に耽る。
2021.9.25人間は考える葦である。ブレーズ・パスカルはそう言った。フランスに生まれた、数学者、自然科学者。早熟の天才の至言。人間は、思考以外の特徴は、その辺の雑草と変わらない。考え続けることだけが、人の人たる所以。ただ、なぜそうなるかもいまだわからず。
憎悪は消えず。
2021.9.139.11。あれからもう20年が経った。マンハッタンに屹立する2棟のワールドトレードセンターが、CGかと思わせるような事件の当事者になったあの日。抜けるように晴れ渡ったNYの空が、かえってその痛ましさを増幅させた。あの光景はとても現実のものではなかった。
川に浸かる。
2021.8.26釣りは水遊びでもある。早春から初夏までのヤマメのフライフィッシングと盛夏手前から秋の入り口までの鮎の友釣り。どちらも川に入る。フライはウェーダーという胴長を履くので、基本濡れない。魚を触って手を洗う程度。一方の友釣りは逆にずっと濡れっぱなし。
善人が殺す。
2021.8.12穏やかじゃないタイトルだ。重々承知。奇しくも、先祖の霊を迎えるとされるお盆の只中に、この国は終戦記念日を迎える。毎年毎年、僕はこの時季になると、このフレーズを改めて想い出す。20代だったか30代だったか、辿り着いた結論。繰り言万回。何度でも言う。
SNSは鍋釜。
2021.7.25表現がいかにも古い。すっかり日常と言いたかったのだが。いや、SNSのことである。デジタルやネットといった新たなテクノロジーが、僕らの生活に入り込んでしばらく経つ。この新参インフラに、直接間接関わりなく生きている人は、いま果たして何人いるだろう?
人間博覧会。
2021.7.19以前、地域系のプロジェクトが複数進んでいるときに、求めるものの高さ故か、突きつけられる課題の難度故か、たくさんの本音が隠しようもなく噴出して、その様をまるで人間博覧会だと表現したことがある。口を突いて出た言葉だったが、我ながら言い得て妙だと得心。
はだかの王様。
2021.7.13前期高齢者になり、それでも悪いところはどこにもなく、毎日元気に過ごしているが、歳を取ることの怖さはいくつかある。なかでも、最悪の恐怖がタイトルのこれ。いわゆる衰えの話とは少し違う。アンデルセンの珠玉の寓話は、いまも僕の心に警鐘を鳴らしてくれる。
花を摘む。
2021.7.7詩人でいたいという想いと関係がある。生きる上でのリスクを後回しにする性向とも繋がりがある。心地よさについてと言うべきか。花鳥風月という物差しもある。僕らは、何に惹かれ、何を手に入れようとして、歩を進めるのか。それは必ず花でありたいという話。
遂に成熟せず。
2021.6.26気分はずっと17歳と言ってきた。若さを保っているというより、いまだ成熟せずといったところ。いや、もう成長の余地はほぼ皆無だろうから、遂に成熟せず、が正しかろう。この感覚は予想できなかった。誰しも歳を取れば、曲がりなりにも、大人になると思っていた。
鮎の夏始まる。
2021.6.14今年もこの季節がやって来た。3月から5月初旬までフライで追っていたヤマメも、僕の中ではシーズン終了。筑後川上流域の鮎釣りは、毎年5/20に催される日田市の川開き観光祭と同時に解禁になる。でも、ヤマメと同じで、解禁日からは動かない。僕の本気は6月から。
天より降りる。
2021.5.26加工品開発の仕事をしていて、時々遭遇する。なぜこの作物なんですか?と尋ねると、JAから薦められたとか、TVで観たけど売れてるらしいとか、返されることがある。自発的に絞り出されることが非常に少ない。それっていかがなものか。そもそもが忘れられていないか。
細胞に染みる。
2021.5.13昔から感激屋ではあった。何にでも興味を募らせ、すぐに感動し、何かと興奮する。生来の特質だと思っていた。ただしそれは、歳を重ねれば、刃物が摩耗するように、徐々に慣れっこになって、いずれ薄れ弱まるものかとボンヤリ考えていた。ところがさにあらず。
戦術の固定。
2021.5.7戦略と戦術。この違いを明確に自覚している人は、意外と少ないのかも知れない。何十年も、それが同じじゃなく、加えて戦略の重要性を説き続けた身としては、「誰もがわかっているわけではない」ことがわかっただけでも、時を経た意味はあったのかと思っている。