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常識と流行。
2026.1.8これらは、とても便利なものだという結論から始めよう。常識がわからない人は、それさえ身に付ければ一定の社会性を纏うことができる。流行もセンスに自信がない人は、流行に従えばそのレベルまでは行くことができるのだ。かように、このふたつはよく似ている。
新薬コワい。
2025.12.4まったく新しいプロジェクトを立ち上げるとき。それはほぼ未経験の領域で、新しいタイプの関係者、耳新しい業界言語、等々が立ちはだかる。この時、こちらはゼロイチの解決策を探り始めている。新しい課題には、新しい解決。古い治療法はすでに効力を失っている。
領域の再編。
2025.7.29慣れ親しむこと、ルーティンを織り交ぜていくことが、安定した日常を創る。昨日と今日が同じだったように、明日も同様に訪れることを、多くの人たちが願っている。そういう振る舞いや作法、感覚や意識を習慣や常識と呼んでいる。言わばそれは本能のカタチなのだ。
質と量の話。
2025.7.23忘れた頃に、またぞろ浮かび上がって来るこのテーマ。主に仕事領域で対峙することが圧倒的。遊びなら、こんなこと考えること自体が野暮だから。でも仕事なら、限られた時間と予算のなかで、最善パフォーマンスを考えるときは、厭でも考えざるを得ない。
古希の約束。
2025.6.23先日、ボディピアスやタトゥを施した教え子の若い女子たちと話していて、実はオレ、40年ほど前にピアス開けたことあるという告白をしたら、想像以上にウケて嬉しくなった。また、タトゥもやるならデザインは決めていると言ったら、さらに盛り上がった。
テンプレなし。
2025.5.29仕事に関しては、特にそうだが、プライベートな生活までそんなことしてたら、きっと身が持たない。仕事では常にゼロイチを意識するが、普段の暮らしはテンプレ、あるいは先行モデルの選択を繰り返していると思う。釣りにしても、料理にしても、自分の発明じゃない。
休日会議。
2025.2.6休日に会議や打合せが時々ある。しかも年々増えてきている。休みの日まで仕事かよと呆れる向きもあるやも知れないが、年中無休と言うことではない。週7日のカレンダーとあまり関係ない設定が増えていると言った方がいいだろうか。そして存外これが気楽で心地良い。
独学のススメ。
2025.1.19学校と名が付く場所には、いくつか行った。一方的な私淑もあるが、専門性については、そのノウハウを手取り足取りという経験はない。さらにデザインなどは、誰にも習っていない。つまり、明確な師匠と呼べる人物はひとりとしていない。振り返ればすべて独学。
そのまま持つ。
2024.8.19最近、面白い話を聞いた。留学経験のある方々が、期せずして同様の思い出話をしてくれたのだが、片やアート、片や化学の領域でアメリカとイギリスの大学で味わった経験が、ほぼ同じ内容の日本人評。それは、「日本人はまとめ好き」なる皮肉だったという話。
ヒンガネー。
2024.7.26漢字を入れると、「品がねー」となる。こんな表現を小学生が日常的に使っている姿を想像して欲しい。笑えるというか、滑稽というか、愉快というか。当時も違和感を持っていたのか、なぜか良く覚えている。もちろん、僕も常用していた。あいつ、ヒンガネーのう。
神社なかりせば。
2024.1.31神社の隣に住んでいる。比較的大きな、歴史ある荘厳なお社。偶然ではない。神社があったので、ここに住むことを決めた。10年以上前の話である。300年を優に超える神社の時間に比べれば、つい先日。どちらかと言えば、しばし住まわせていただいている感覚。
役立たず。
2024.1.7これは何かの役に立つか否か。そんな視点で物事を眺めている人は多いだろう。それが余りに露骨になると、打算と蔑まれることもあるかも知れない。あるいは、無駄の排除。興味深いのは、何を無駄と思うかだ。この取捨選択が、人生を厚くもすれば薄くもする。
フジヤマ。
2023.12.12ふ〜じは、にっぽんいちのやま〜。富士山を見たことのない子供の頃から、この歌は知っている。大人になって、東京に行くようになり、時々飛行機の窓からチラリと見やる程度。それが数年前、縁あって麓の町富士吉田に何度か訪れたことがある。その巨大さに驚いた。
手続きに陥る。
2023.7.13それまでの手法が通じなくなる。新しい領域に踏み出さなければ先がない。つまり、それまでのやり方を改めなければ、現状打破は難しい局面。時が経てば変化が起こる。変化には自らをアップデート、更新で対応することになるが、ここにマニュアルの限界が現れる。
未熟な科学。
2023.2.12最近関わったイベントのひとつに、神官の方が奈良の歴史を当地を巡りながら紐解くという企画があった。それはそれは、驚きと感心満載の講話だったのだが、僕の耳に残ったのは講和後の雑談だった。先生はポツリと、「神話を亡くしたらあきまへんで」と仰ったのだ。


