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正月到来。
2024.3.11月1日は、世間の正月だが、ヤマメ釣り師にとっては、3月1日が正月である。前年の9月末日をもって禁漁となり、季節も冬に入る。そしてその冬が明ける弥生早春。ヤマメたちはもう動き出している。釣り人もまた、道具の埃を払い、ようやく年が明けるのだ。
無常について。
2024.2.6所詮一瞬だと思っている。いや、わが人生のことだ。薄っぺらい人生観の根底にそんな気分が確かに潜んでいる。それは今に始まったことではない。10代の終わりの混沌の中で、もがき苦しんだ挙げ句に掴んだ予感のような、諦観のようなもの。ただ、厭世感とは違う。
フジヤマ。
2023.12.12ふ〜じは、にっぽんいちのやま〜。富士山を見たことのない子供の頃から、この歌は知っている。大人になって、東京に行くようになり、時々飛行機の窓からチラリと見やる程度。それが数年前、縁あって麓の町富士吉田に何度か訪れたことがある。その巨大さに驚いた。
初冬の設え。
2023.12.6ブンボの打合せ室に入る表玄関は、普段の生活では使わないパブリックエントランス。何人かのお客様がいらしても、玄関で鮨詰めにならないようにゆったり作った。素材は三和土。下駄箱の上はちょとしたギャラリースペースで、オブジェが並び、壁には絵が掛かる。
江副の樹?
2023.11.12ここのえ低山部の、山の先輩たちに、そんな名前の木があると聞いたときは、もちろん冗談だと思った。いや本当にあったのだ。毎年、必ず春の新緑と秋の紅葉を楽しみに訪れる大分県庄内町男池。有名な湧水から少し歩いた先にこの木はある。見上げるほどの見事な大樹。
ムカゴに興ず。
2023.10.25もう毎年のこと。釣りが終わって、10月の声を聞く頃、あちこちで視界に入ってくる。細面のハート型の葉っぱが、急に目に付くようになって、どれどれ実は付いたか?とモードの転換が起こり、つまり秋が始まる。となると、俄然朝の散歩が楽しくなってくる。ムカゴ。
ドングリの音。
2023.10.7毎朝、境内へ通じる百段階段を上がる。そこは両側に大木が生い繁っていて、春夏秋冬さまざまな表情を見せる。春は若葉が萌え出し、夏は鬱蒼とした緑陰が涼を生み、秋は紅葉と落葉がはかなげで、冬は木々が葉を落とし切り、日射しが広がり意外にも明るくなる。
2匹の尺物。
2023.10.1僕の釣りシーズンが終わった。3月から5月までは山女魚のフライフィッシング。6月から9月までは鮎の友釣り。山女魚は14回と例年並みだったが、鮎は長雨に祟られたこともあり、20回と少し控えめだった。もっとも回数ではない。興奮の密度こそが求めるところだ。
神社のそばで。
2023.9.25大分県日田市にある大原天満宮のそばに住んで、もう11年目になる。周辺の渓流にヤマメ釣りで訪れ、惹かれ始めて30年を超えた。地元の人々とも繋がって、距離は次第に縮まり、同じ生活圏の隣村で過ごした12年を含めると、日田との関わりはとっくに20年以上だ。
百日紅の夏。
2023.7.25夏が盛りを迎えると、あちこちに白や紅、ピンクの花弁を房のように咲かせる百日紅。その名の通り、開花後もすぐに散り切ることもなく、長い期間咲き続ける。色の乏しい季節に、ホッとするような花木。日田のわが家にもシンボルツリーとして玄関脇に植えている。
一畳農園。
2023.7.7畑をやっている。と言っても、わずか畳一枚分。その名も一畳農園。狭い庭の一角に数種の野菜を植えている。今年は、ミニトマトとバジル、そして初の試みモロヘイヤ。梅雨の最中、ミニトマトは今季初収穫。冷蔵庫で冷やした後、カプレーゼで美味しくいただいた。
遊びの先に。
2023.6.6遊びをせんとや生まれけむ。のフレーズがあったのは、梁塵秘抄だったか。僕を含めて、わが遊びの肯定にしばしば引き合いに出される。編纂したとされる後白河院の真意はともかく、言い訳ではなく遊びの意義については、いまも変わらず強弁したくなることがある。
花を拾う。
2023.5.1毎朝散歩をする。田舎町のはずれ、大きな神社の鎮守の杜を、写真を撮りながらフラフラ歩いている。深山幽谷とまではいかないけれど、四季の変化は驚くほど多彩を極める。時は朝に限るものの、花鳥風月の豊かさに日々胸をときめかせている。中でも花は、饒舌だ。
シジミと土木。
2023.4.25もうひと月もすれば、近辺にはホタルが飛び始める。決して僕の住む場所は山奥ではないし、近くを流れるのは人工的な溝や疎水なのだが、ホタルにとどまらず、サワガニもハヤもシジミも生息する。ただ、どれも古い構築物で近代の無機質さとはどこか異なっている。
山の女と。
2023.4.7山女と書いて、ヤマメと読む。最初に出会ったのが、24歳の春だから、もう随分長い付き合いだ。最初の一匹は、大分県のY川源流で毛鉤に掛かった15センチほどの個体。僕はそれを両の掌に乗せ、河原にひざまずいてしばらく見入ったことを、いまも鮮やかに思い出す。